シンポジウム「これからの大学を考える」

日経調シンポジウム「これからの大学を考える」内容抄録


パネリスト・コーディネーターのプロフィール概略(五十音順、‘04/9現在)

木村 孟 きむら・つとむ

大学評価・学位授与機構長、東工大名誉教授
工学博士
1938年生まれ 東京大学大学院数物系研究科土木工学修士課程修了 東京工業大学教授、工学部長を経て東京工業大学学長、中央教育審議会委員などを務める。ケンブリッジ大学チャーチルカレッジフェロー。著書「土の応力伝播」「土質力学」。

鈴木 清江 すずき・きよえ

㈱三越 銀座店副店長、国立大学教育研究評価委員
東京都生まれ 東京大学教育学部卒業 ㈱三越入社 本社海外事業部・人事教育に各々10年間携わり、営業本部販売人事部GM、池袋店営業第一部GM、を経て現職。中教審「少子化と教育に関する委員会」専門委員、都生涯学習審議会委員、文科省管轄 独立行政法人評価委員、大学評価・学位授与機構大学評価委員をつとめる。

土持 昭達 つちもち・あきさと

宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校長(日本初の全寮制公立中高一貫校)
1949年宮崎県生まれ熊本大学理学部物理学科卒業、延岡商業・延岡西・宮崎西高校教諭から宮崎県教育庁学校教育課指導主事、県教育研修センター企画調査課課長、宮崎大宮高等学校教頭を経て、2002年より現職。

長田 豊臣 ながた・とよおみ

立命館大学総長、文学博士
1938年生まれ 立命館大文学部卒業・大学院終了後同大学助手・助教授、教授。米プリンストン・コロンビア各大客員教授を経て文学部長、1998年より総長。日本私立大学連盟常務理事、文部科学省大学設置学校法人審議会委員、中教審専門委員、大学基準協会副会長。アメリカ史(専攻)の著書多数。

塙  義一 はなわ・よしかず

日産自動車㈱相談役名誉会長
1934年生まれ東京大学経済学部卒
日産自動車㈱入社、米国工場開設準備室次長、米国日産自動車製造会社秘書役、日産自動車㈱企画室長、取締役、常務取締役、米国日産自動車会長を経て、日産自動車㈱専務、社長、会長、会長兼社長・最高経営責任者を経て現職

森  健一 もり・けんいち

東京理科大教授(MOT)、東芝テック㈱相談役、工学博士
1938年生まれ東京大学工学部応用物理学科卒,㈱東芝入社中央研究所(現研究開発センター)配属、情報機器事業本部長、常務取締役を経て東芝テック㈱社長、同社相談役。科技長官賞・大河内記念技術賞・高柳賞記念奨励賞他を受賞、著書「ワープロが日本語を覚えた日」。日本初の日本語ワープロ開発者としてプロジェクトXに出演

諸井 虔 もろい・けん

太平洋セメント㈱相談役、地方制度調査会会長
1928年生まれ 東京大学経済学部卒業
㈱日本興業銀行、秩父セメント㈱常務取締役、専務取締役、社長等を経て現職。(社)日本経済調査協議会理事・総合委員長、経済同友会幹事。㈱東京放送・㈱日本航空社外取締役

 



















 

 

(シンポジウム実施日 2004年9月27日 場所 経団連会館)

 

司会者:

 悪天候の中大勢の皆様にお運びいただき有難うございます。これより社団法人日本経済調査協議会の主催によります、シンポジウム「これからの大学を考える」を開催します。
 パネルディスカッションの時に、フロアからも建設的なご質問・ご意見を頂戴いたしたいと存じます。
 今回のシンポジウムは日経調で高等教育に関して検討を行った調査専門委員会の提言「これからの大学を考える~21世紀知識社会・グローバル化の中で」を基にしたものであります。
 本日は、これからの大学について、ご検討いただく機会をご提供できればと考え、文部科学省様、社団法人日本経済団体連合会様のご後援ならびに東京私学教育研究会様のご協力をいただき、今回のシンポジウム開催の運びとなりました。この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。(登壇者の紹介)
 では、本委員会の委員長で、当会理事・総合委員長でもある諸井虔様からご挨拶をいただき、つづいて本委員会の主査の木村孟様より、報告書の概要の説明をいただいた後、パネラーからの報告・ディスカッションに移ります。

 


諸井委員長「序に代えて・なぜ今大学か」

 日経調での新規調査研究テーマの選定をする場で、粕谷一希氏(ジャパンジャーナル社長、評論家・元中央公論編集長)から、教育に関して色々議論はあるが革新的なものが無いとの発言があり、日経調として教育を取り上げることになった。当初の委員の共通認識は「今の子どもに夢がない。自分自身の進路について明確な考えがない。学校でお仕着せの勉強をつめこまされて面白くない」であった。ところがぴあ・公文・河合塾・リクルートの社長・会長など若い方との接点が多い委員からは、「そんなことは無い。今の若い人は自分のやりたいことをちゃんと持ち、そのために積極的に勉強している」との声が上がった。
 私も行田の中学・高校の生徒と話をすると、それぞれが自分のやりたい事を持っている。さすがに、昔のように軍人になりたい、役人になりたい、大企業のサラリーマンになりたいという方は居なかった。落語家になって人を笑わせたい、獣医になってペットを治したい。昔のように医者になりたい、看護婦になりたいという方も居たが、中には女子生徒で、自衛隊に入って国の防衛に役立ちたいという方や、国際機関に入って日本の国際的地位の向上に努めたいという人も居た。それぞれがやりたい事を持って、こういうことでという理由をきちんともっている。
 どうもわれわれは認識を誤ったな。子ども達は気づいて懸命にやっている。むしろ問題は、やりたいことが見つからない子にどうサポートして探してあげるか、あるいは、自分がやりたいことをやるにはどういう勉強すればよいのかを教えてあげる人がいないことだと考えるようになった。母親や学校の先生も世の中のことを知っているわけではないし、相談する先生まかせでなく、父親も協力せねばならないし、地域社会も子どもを見て生きがいのある生活が出来るようアドバイスをすべきであると考えた。
 子どもは大人の様子を見て生き方を考えるので、大人自身の在り様がむしろ問題なのかもしれない。そういうことになったのは、戦後教育が「ゆきすぎた平等」と「ゆきすぎた自由」の点で問題があったからだ。民主主義は自由と平等だ。自由とは子供がやりたいようにやらせばよい、平等とは結果の平等であって運動会で決勝線の前でみんなが手を繋ぎ一緒に入ってみんな一等賞というのが平等。こういった意識が強すぎたのではないか。ある程度競争をしていかなければ、何事も励みが出てこないものだ。また、結果の平等にこだわることは一番いけないのではないかということも考えた。
 一番大事なのは自分と社会とのかかわりだ。どうやって社会の役に立つか、あるいは社会の迷惑にならないようにするか、そういったことを誰も教えていない。このあたりが一番問題だ。かように、子どもたちがそれぞれの適性に応じて発展し、社会と積極的にかかわり社会をよりよいものに変えてゆくための、いわゆる「社会力」の育成が重要との立場から、2002年12月に主として初等・中等教育を念頭に、報告書を発行して教育の改善方策を提言した。
 そこでは、案外子ども達はやりたいことがあってそのために勉強している。各方面の専門家を育て、子供達がやりたいことを見つけられるように協力すれば、社会は進歩発展するという結論になった。
 ところが今の日本は、リーダーの不在が深刻な問題だ。下士官はいるが指揮官に人材がいない。本来リーダー教育をやるべき大学が余りやっていない。これは高等教育問題について突っ込んだ議論が必要だ、というわけで引き続き高等教育に焦点を移しさらに議論を重ねた結果、今回この報告書が纏まった。
 考えれば18歳人口が減り、希望さえすればどこかの大学に必ず入学できるという全入時代が来る。九九も出来ない、当用漢字も書けないそんな若者でも、みんな大学が受入れなくてはならない。大学生の質が低下している。一方社会の方からは、高度な人材が求められるので、高度な教育をしなければならない。ところが先生たちも割とのんびりして居られるし、学生たちも大学は受験戦争が終わったさあ一休みという感じでがんばろうとしない。しかしその一方で社会からは人材が求められる、これから大学にとって大変な時代になるだろうと思う。
 われわれは一体大学がどんな風になっていけばよいかを議論した。その中身は木村先生からお話いただくが、若い有能な学長がリーダーシップを発揮し大学改革をしなければならない。これは、企業でも同じである。企業トップをどう育てるかについて、日本の大企業は必ずしも十分な対策を採ってきたわけではない。従来は年功序列やバランスのなかからトップが自然に決まって行った。しかし、今のリーダーで新しいビジネスモデルや戦略・戦術を生み出せるか? 自分が決断し、みんなを説得して実行に移せるリーダー教育がなされているか? 現状では、企業が直面している過激なグローバル競争に対応できていない。政治面でも、そろそろ内閣のメンバーも決まっていると思うが、小泉首相のあと誰がやるのか見えてこないで次期リーダーが不在だ。また、官界に目を転じると、事務次官も昔に比べて小粒になった。省益のみを考え国益を考えていない。かようにあらゆる面でのリーダーが育っていない。
 これが受験秀才ではない新しい真のエリート教育が必要なゆえんだ。大学には相当頑張っていただかないといけない。また、社会全体がリーダー育成のために協力しなければならないと思う。

 


木村 孟 大学評価・学位授与機構長、諸井委員会主査「諸井委員会報告・提言解説」 

 報告書の基本認識は、社会の急激な変化に対応して、大学は教育・研究を通じた人材育成や科学技術研究の分野で大きな役割を果たすべきだ、とする点だ。人材育成では、第一に高度専門職人材(国際的に通用する能力を持つ人材)の養成に注力して、企業側も管理職優先ではなく専門性を持った人材(外国で勝負が出来る人材)を大事にすべきである。第二に、国や社会をリードしていく使命感のある人材(新しいエリート)の育成である。右肩上がりの社会では凡庸な集団的意思決定方式で事足りた。これからは異なる価値観を有する人びとに向かい限られた資源の中で厳しい政策判断、経営判断を個別の利益ではなく社会全体の利害を考えて行える指導者とそれを支える有能なスタッフが必要になる。第三に、これらの人材の育成には新たな教養教育を考える必要がある。教養教育の要諦は精神活動を全人格的に活性化することであり、教員や学生相互のふれあいなど大学が醸し出す教養的な環境の中で行うことが効果的だ。また、従来のリベラル・アーツ的教養に限らず、これに加えて社会のさまざまな具体的問題を学際的な観点から考察するなど教養教育の内容や方法にも工夫が必要である。
 これからの大学には、各大学が独自のミッションを明らかにし、生涯学習体系の定着を図り成人学生の学習意欲を刺激することが求められる。そのためには、先進国に比べて低い高等教育への公財政投資を重点配分により増やすことが必要である。
 初等中等教育に関する報告書では「社会力」を身につけるということが主眼であったが、高等教育の報告書では「新しいエリートをどう育成するか」を大きなポイントとしている。
 報告書では、関係者(大学・国・企業・社会の構成要素)に求められることとして、大学には社会のさまざまなニーズに応えるべきことが、国(政府)には、高等教育を国家戦略として位置づけその発展を図ること、財政投資・規制緩和・認証評価をつうじて大学の国際競争力向上に努めることが、企業には大学が養成する人材をこれまでの若年・新卒採用といった慣行にとらわれずに受入れることが、そして社会一般には、生涯学習の時代にあって大学や大学院で学ぶことの重要性を理解すると共に、大学改革へ積極的に関わっていくことが求められている。詳しくはこの報告書を読んでいただきたい。
 最後に、大学が危機にあるのは日本だけではなく実は世界的な現象である。桜美林大学の潮木教授(元名古屋大学)は近著(9月24日刊)の中公新書「世界の大学の危機」でこの問題を見事に分析されている。新書の帯にも「苦しんでいるのは日本ばかりでない」と強調しておられることを付言しておく。
 それでは、続いてパネラーにお話いただく。最初にアジア・パシフィック大学の開学で今非常に活気のある立命館の長田総長にお願いする。

 

 

長田豊臣 立命館総長「グローバル化と知識社会化への大学の対応」

 従来この種の物は余り読まないが、今回は日経調の報告書を初中等教育編と高等教育編の両方読んだ。従来のものと一歩も二歩も進んだ非常に参考になる面白い内容だった。大学は人材養成の問題では、創造的で豊かな教養を兼ね備えた人材を創らないといけない。また、新しいエリート人材の指摘であるが、単なる受験秀才では駄目であるということを明確にしておられる。また、21世紀に相応しい情報教育の必要性を訴えておられる。以上のことを踏まえたうえで、私の考えを述べさせていただく。
 冒頭の題を戴いたが、いま、現在の社会で大学において何が問題であると認識しているかを述べる。
 日本は、明治に入って欧米列強に追いつき追い越すために大学を設立した。この国家的目的を遂行するには、国が直接コントロールする国立大学のシステムは実に有効で効率的だった。知識吸収能力に長けた学生を集中的に教育した。このシステムが欧米へのキャッチアップに決定的な役割を果たしたことは疑いを得ない。しかし、60年~70年の高度経済成長を果たして日本が世界経済のトップを争う様になると、キャッチアップ型の教育は限界と綻びを見せる。先行例のない独自の開発能力や創造性が要求されるようになると、従来の敢えて言えば創造性や独自性の発揮より既存の知識や先行例の吸収に重点を置く教育体系が、もはや問題を含み始めている。
 もう一つ日本だけではなく、従来の大学の理念型であったフンボルト型の大学像からの脱却が世界的課題必要になってきている。日本の旧帝大を中心とする従来の大学はフンボルト型がひとつの理念であった。欧州も、EU統合以来さまざまな大学改革が進行しつつある。とくに問題になって居るのはドイツである。ご承知のとおり、ドイツでは入学試験もないし卒業も明確にない。マイスター(親方)制度があって別に大学に進まなくとも、社会的に尊敬される職業につくことが出来た。9.11の実行犯もドイツへの留学生で7年間大学に居たわけだ。ドイツはこういうことで競争力が落ちてきた。そこで、あのドイツですら私立大学が11出来はじめている。日本の私学と異なり、企業や国が金を出し合って私立大学を作るわけだ。産業は国境を越えて世界で競争しているのに、大学は依然として国内に限定されている。とくに日本は遅れている。国際競争力がない。そこで、微力ながらAPUを創設したわけだ。
 経団連の平岩先生からも大変なご助力いただいて、今では世界の72カ国から学生が来ている。
 また、一般的なバックグラウンドとして、わが国には国立大学と私立大学の2つの流れがある。
 そして、日本が上からの、国家主導の近代化であったために、国立大学中心であった。私立大学は早慶や当校も含め100年以上の歴史を誇る学校がありながら、高等教育の傍流的な存在であり補完的な機能を果たしてきた。21世紀になると、そういったキャッチアップ型・発展途上国型の高等教育からどう抜け出すか、先のフンボルト型の大学からどう脱却するか、もう一つは凄まじい勢いで進む高等教育の大衆化をどう高等教育の中にポジティブな形で組み込むかである。こういう問題へのポジティブな対応として、国公立大学の独立法人化があげられている。ところが、私は国立大学がどういう点で問題をはらんでいるかを余り議論せずに、この4月から独立法人化=存続が進行しつつある点が大きな問題であると思う。
 私は私立大学の総長であるので、国立大学関係者の方には刺激的であろうが、わが国で高等教育のあり方を考える上で、国立大学をシステムとしてどう考えるべきかを議論する必要があと思う。
 国立大学協会(国大協)は国立大学には、①地域的バランス、②国家の基幹的人材養成、③教育の機会均等 ④採算性が低いが公共の役に立つ基礎研究 と4つのメリットがあると主張する。しかしキャッチアップを主要課題とする発展途上国型の経済ではいざしらず、21世紀の成熟国家となりつつあるわれわれにこれが必要なのかどうかは議論する必要があると思う。私は国立大学をそのまま存続させることには問題があると考えている。
 第一に国大協は全国にまんべんなく国公立大学が存在することで地域的なバランスが取れると主張する。確かに、私立大学の分布は首都圏に多いが、地方にも伝統ある私学が存在している。国公立大学でないといけないというのは官尊民卑の考え方だ。とくに田舎に行くほどこの官尊民卑の風潮が強い。そういう中で私学はハンディを背負わされてやってきた側面がある。
 第二に国大協は国家の基幹的な人材育成を国立大学でやるという。発展途上国ならいざ知らず、一部の国立大学に基幹人材の育成を期待するのは時代錯誤ではないかと思う。
 それから、国大協は採算性の低い基礎研究や公共に役立つ研究の必要性をあげる。基礎研究の必要性には誰も異存がない。しかし、基礎研究ははたして国立大学でしかできないのかというと、そんなことはない。
 これまで明治以降国家政策によって資金と人材が国立大学に集中的にしていた結果、多様で多彩な研究機関の量的存在が阻まれてきたとも考えられる。アメリカでは、応用・基礎研究において私立大学がリーディング・セクターであったことは周知の事実である。問題は、国立・私立といった研究機関の設置形態ではなく、いかに効果的効率的に研究資金と人材が投入され最大の結果をあげるシステムを作れるかである。21世紀の研究活動において決定的に重要な課題は、知の構造化やその組織化にある事が言われはじめている。そのためには多様で・多彩な研究機関が、一定の量的存在を占める事が必要だと思う。
 それと、進学適齢期の50%近い若者が何らかの形で高等教育機関(大学)の門をくぐる現在。国立大学と私立大学の関係をどう考えるか真剣に議論する時代になっていると思う。
 そのときに問題なのは、進学率が50%を超えて高等教育(大学)が大衆化することをネガティブに捉える議論が時々見られるが、ポジティブに捉える議論があまりにも無さすぎることである。日本の高度経済成長を支えたのは、旧帝大を中心とする高い教育水準であったことも事実であるが、大衆化した高等教育を支えてきた私立大学の努力によって、大量の個性的な人材を企業に輩出してきたことも否定できない大きな事実だ。本日は企業経営者の方も多数お集まりだが、私立大学が支えた大学の大衆化なしには日本の高度成長はありえなかったことを強調したい。
 アメリカを見れば、ハーバード、MIT、イエール、プリンストンという有名大学の名前があげられるが、その基礎には4000近い大学があることを忘れてはならない。当然これらは玉石混交で底辺にはいわゆる「ディグリー・ミル(卒業証書印刷所)」と呼ばれる大学もあることは事実である。コミュニティー・スクールも含めた4000もの大学が、市場原理に基づいてそれぞれがそれぞれの役割を果している相対の上に、トップ・スクールが存在できる事実をわれわれは忘れてはならない。
 では、私立大学のメリットは何か。それは何といっても多様な学生・多様な価値観が存在することだ。均質でないことが従来はデメリットと考えられていたが、私はいまやメリットになってきていると思う。さまざまな経験、問題意識、価値観を持った学生が同じキャンパスに混然と存在する知的コミュニティが大切だ。
 ただ、多様な学生がいるだけでは、それはカオスで混乱に過ぎない。これらの学生の多様性な個性を創造性に高めていくような教育システムを構築することが要求されており、成功している大学はそれらを成果として定着させつつある。要するに、何といっても創造性は多様性の中からしか生まれないことをわれわれは確認しておく必要がある。 こういう私立大学の経験を、21世紀の日本の高等教育にどう活かし繋いでいくかが大切だ。
日経調の報告書では、新しいエリートを受験秀才ではないと明言しておられる。これは極めて重要なことだ。しかし、ではどういう形で選抜するのか? 日本では何といってもペーパーテストを中心にやってきている。それは確かにある意味で客観性がある。今まで入学試験の弊害が縷々言われているが、結局根本的な改善が何もできないでいる。それは、確かに創造的な入試政策~個別の学生の才能を見出して知的訓練に耐えうる知的体力のある学生を育てる方法~が非常に難しいこともある。しかし、ここで留意すべきことは、入試方法を含む試験制度全体が、結局は教育する側の意識~具体的には教育形態、内容とその価値観~によって規定されているということだ。
 だから、旧帝大を頂点とする高等教育システムが支配的でありその価値観が貫徹している以上、入試制度は依然として変わらないし、変わる必要が無いわけだ。本当の意味で私立大学を含めてまだそういう意識にある。当大学(立命館)の先生方も、最近偏差値が高くなったと言ってプライドを高くして喜んでいるが、これはじつは大変危険なことだと思う。偏差値が高いだけの私立大学なら存在意義は無い。そんなことは東大や京大に任していればよい。従来の価値観から脱却できていないのだ。
 日本もこのさい大胆に資源と人材を投入して教育研究制度を作り上げる必要がある。アメリカのETS(エデュケーショナル・テスティング・サービス)は多くの学位を持った研究者を集めた千人近い組織だ。いろいろ批判もあるようだが、ETSでも入試改革が行われている。入試制度それ自体から変える時期が来ていると思う。
 東大中心のピラミッド社会では駄目だ。東大がピークなのがいけないのではない。1つや2つのピークを幾ら高くしようとしても、支える裾野が広がらない限り結局ピークも高くならない。そのためには研究は国立大学という固定観念を打ち破り、私立大学の水準の高いところも含めて考えて、連峰型で裾野の広い高等教育システムを一日も早く創っていかねばならない。
 今度の法人化は、日本の大学にとって必要な歴史的流れであったと思う。国立大学は法人化ですでにルビコン河を渡ってしまった。今後は不徹底な事をやると却って駄目になってしまう。10年後、15年後に必ずゆり戻しがやってくる。教育とはそんなもので、国家の存亡に関わるものである。
 しかし、今のところ依然としてやはり既成の権益擁護の側面が強く出すぎていて、真面目にやっている所もあれば、今はともかく嵐が過ぎるのを待てばよいと思っているところもあるようだ。非公務員化に踏み切ってはいるが、やはり本当はもっと徹底が必要ではないかと思う。私は先週来、東大の佐々木総長と一緒にカナダで3日間日加学長会議をやってきた。彼に会うたびに私が言うのが「国立大学の学費をもっと値上げすべきだ」である。ハーバードやイエ-ルの学費は年間400万円だ。それでも学生が来ている。資本主義社会である以上、本来それぞれの大学は自分の大学が幾らの学費を払ってもらえる価値があるか、自ら示すべきである。ご存知のように、アンダーグラデュエイトは少し話が違うが、ハーバードやイエールの大学院生で、自分で学費を払って行く学生はごく例外的である。ほとんどの学生は奨学金を受給している。そこで重要になるのが奨学金だ。良い大学ほど奨学金が多く集まる、大学の経常費に回す分を奨学金に回す、今の国立大学は自分で自分の学費を値上げできないが、本当は自分の足で立つということが重要だ。私立大学は経費の2割ほどしか助成金を貰っていないが、われわれの自信は国がなくなっても大学は存在するという所に根ざしている。その代わり、社会から理解されず必要とされなくなったら明日にも倒産する。今後倒産していく大学が沢山あるだろうと思う。そういう厳しさが大学経営には必要である。そのために優秀な学生には奨学金を回す、そして、研究費などに金を大胆に当てて行くシステムが必要だ。立命館のAPUの成功には、経団連の平岩先生を始め日本の財界が60億円という奨学金の原資を拠出してくださったことがまことに大きい。予算の2~3割が奨学金だ。アジアの留学生はまずアメリカ次に欧州に行くが、その次にはちゃんと日本に留学生を寄越している。それを支えているのが奨学金であることを忘れてはならない。
 報告書で教養教育の重要性をあげておられることにはまことに賛成である。しかし、われわれは教養とはモノを知っていることだという幻想に囚われていないだろうか。教養とはシェークスピアの名言を引用したり漢文の片言を諳んじたりすることではない。真に教養があるとは、モノを知っていることではなく、状況を切り拓く能力を持っていることであり、知識を智慧に変える力を持っているということだ。われわれも古典を100冊読めといわれて一所懸命読んだが、全然意味が無いことだった。夏目漱石の「それから」や「こころ」を中学生が読んでも判るはずが無い。大学を出てわれわれの年代になって、兄貴の女房や、友達の奥さんが好きになる、そんな状況になって初めて心に沁みいるのだ。古典とは出会いが大切だ。旧制高校的な教養の幻想からわれわれはもはや開放されるべきである。今日は五ヶ瀬中等教育学校の土持校長先生もお見えだが、古典と上手い時期に幾つどういう出会いをするかというシステムを作ることが大事なことではないかと思う。他にも色々あるが、まず是非言いたかったことを言わせていただいた。

 


木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 長田総長有難うございました。続いて、産業界から諸井委員会の委員でもある日産自動車の塙名誉会長に企業の人材採用や育成がどう変化しているかをお話いただく。

 


塙 義一 日産自動車名誉会長・諸井委員会委員「グローバル企業の採用・人材育成と企業改革」

 私どもは大学卒業生の受け皿である。卒業生がどのように生活をされるか、また昔とどのように変わってきたかを実例でお話しする。
 日本経済の分岐点は1985年のプラザ合意で$=240円の円安からあっという間に$=100円の円高に振れて真の意味でグローバルな競争が始まった時点だ。今まで1万ドルで売っていた車に、3万ドルの値段を付けないと同じ額の円貨が入ってこない。そんなことは出来ないから日本からの輸出が採算に合わなくなった。輸出がゼロとは言わぬが大幅に縮小して、海外生産せざるを得なくなった。嫌でも「世界の中の日本」を意識せざるを得なくなった。当時は6分の1が海外生産で6分の5が日本での生産だったが、現在は6分の4が海外生産で6分の2が日本での生産と言うように様変りしている。生産拠点が変わると開発の拠点も一部含めて、商売の拠点も日本から海外に変わってきた。今までのように日本の価値観を世界に輸出するのではなく、世界の中の日本という価値観に立たないと運営していけなくなってきている。グローバルとは世界の中の日本という位置づけだ。具体的には日産も、アメリカ本社、欧州本社のように日本本社と呼ぶようになり、さらにそれを統括したホールディング・カンパニーとも言える世界本社という組織機能で現実に動いている。
 世界本社の会議には、かつては拠点であった所の者が各地域本社の一員として出席して来て対等にモノを言うので、会議そのものはいろんな国の人が集まる国際色豊かな会議になって来た。従来の日本の価値観を輸出するのではなく、海外の人が集まった場でモノが決まり、それを一地域としての日本にもアプライするという位置づけになってきた。従って、色々な人事制度その他学生の取り扱いについてまで、グローバルな基準で考えざるを得ない。人種差別や性差別はなくなってきつつある。
 次に、生産の拠点がかなり海外に移ったということは、残った日本の中の競争が厳しくなったということであり、従来のようなのんびりしたことではやっていけなくなった。各社とも経営が大変だということで、リストラをしたりして苦労をしているが、これは、バブル崩壊の結果というよりは、85年のプラザ合意のターニングポイントの延長線上にあるのだと思う。この日本の競争激化も85年がターニングポイントであって、バブルは一時の円安と同様、問題を先送りしたに過ぎない。以前は、大学に入学すれば受験勉強から開放されて休養的に4年間過ごす、また、大企業に上手く就職できれば一生安心で、寄らば大樹の陰ということもあった。最近はそうも行かなくなった。終身雇用自体がなくなったわけではないが、入社と同時に会社へのロイヤルティと交換に終身雇用を約束するということは、もう企業には出来なくなったということだ。従って全員に終身雇用を約束できない時代になった。そのため終身雇用を中心に成り立っていた色々な社会慣行年功序列や系列といったものが保てなくなった。終身雇用であると必然的に年功が一つの重要な価値基準になる。年功序列の世界では先輩が後輩に追い抜かれることはまず無い。一時即戦力で行く人は別として、年功そのものは保たれた結果、心の平穏を皆が保つことが出来た。しかし、今はそういうことはもう無い。
 日産で何が変わったか。まず、グローバルな本社として、物理的には存在しない世界本社が機能していることだ。そうしないと各地域が納得しない。私がアメリカの現地法人に居た時は、東京本社が現地のことを良く知らないで物事を決め、さらに指示を出すので、現地では東京はけしからんとずいぶんと不満を持っていた。これは何も日産だけの特徴ではなくて、当時アメリカに進出した日本企業に普遍的な現象だった。しかし今はこのような日本の価値観を世界に押し付けるという政策は取っていない。世界本社の社長がアメリカ本社の社長も兼務しているので、アメリカで決めるべきことのかなりの部分がアメリカで決められ、いちいち日本の決裁を仰ぐ必要が無いようになってきた。
 次は、終身雇用・年功序列の崩壊である。観念的にいうと終身雇用・年功序列はすでに根本的に壊れている。ただ、物理的には何となく残っている面がある。日本だけでまだ3万人ぐらい従業員が居るため、1、2、3、で全員が変わるということは起こりえない。相変わらず先輩は先輩面をし、後輩は若干の遠慮を持ってやる。しかし、評価の尺度を実績に取ったため、若いからといって虐げられたり、実力を出し切れないことが無い仕組みになっている。実績主義といっているがこれは実力主義とは異なるものだ。実力は機能によって異なる。開発の実力と営業の実力とは比較しようが無いものだ。このように実力主義は観念としては有りえても、運営上のメジャー(尺度)としては有り得ないため、現実のメジャーとしては実績主義を採っている。では、実績のメジャーは何かというと、本人が作ったターゲットである。われわれはこれをコミットメントと呼んでいるが、「この約束を守ることが出来なければ会社を辞めることもあるべし」という気持ちで本人が提示して、会社側もそれを認めたものがコミットメントである。これはどこの部門でもある。コミットメントを達成すれば百点満点。オーバーすればプラス・アルファのボーナスが出る。到らなければディモート(demote:降格)もあるべしとした。従って機能別の不公平は無い。かように実績主義でやっているので、制度的に、従来のような年功によって先輩がいつまでも上位者でいつづけられる保障は無く、気持ちの面でももはや誰もそうは思っていない。実際に今までの後輩が自分の上司になったという例もあるし、それが嫌で会社を辞めた人もいる。かなり実績主義がここ数年で徹底されてきた。
 もう一つはスペシャリティの重視である。従来は大学を卒業した人を人事部門が纏めて採用して導入教育をし、一定水準に達したレベルだと認めたら均等に各部門に振り分けて各部門が教育していた。現在はそうではなくて、応募時から全学生に例外無く希望部門の指定をして応募してもらう。日産自動車ではなくて、日産自動車の開発部門のこういう仕事をやりたい、ということをはっきりと指定してもらって、その部門に応募してもらう。人事部門への応募は人事がやりたい人だけであって、会社(一般)への応募は人事としては受け付けない。その際も、大学名は一切問わない。書類も戴かないで応募だけ。それでインタビューや色々やって、最終的に内定しましたという時に、書類を戴いて、なるほど、この方はこの大学だったのかわかるというのが実情だ。製造現場を除いてほとんど大学卒が応募するので、学歴格差が一切無いというところまでは言い切れないが、学校の種類による差や学校の成績による差はできるだけ設けないようにしている。もちろん性差別や人種差別など基本的に無く、差別が禁じられている。今年は事務系の大学卒を100名採用したが、約半分を女性が占めている。昔は女性がホンの一部だったが、いまでは半々。
 ひょっとすれば女性のほうが多い部門さえある。実力とか成績で言うと女性のほうが良かったりする。それから職種についても女性は非常に明快なモノを持っている事もあるのかもしれない。
 新卒・中途採用を問わず、人種も一切問われない。以前は日本の大学を卒業していることといった条件があったのだが、今はグローバル時代なのでそんな制限は無い。アメリカの大学であろうがヨーロッパの大学であろうが構わない。外国人が30名程度採用されるが、中には英語は出来るが日本語が話せない人も若干いる。それでも余人を以って替え難い能力を持つと言うケースもあるわけだ。
 また、事務技術系の採用ではすでに半分が中途採用になっている。製造現場はもっと多い。労働市場の自由化もあるが、力があって仕事をしたい人は新卒・既卒を問わず皆受け入れようというスタンスだ。
 これからは、将来の自分の仕事をしっかりイメージしている人、コミュニケーション能力の高い人(外国人には阿吽の呼吸は通用しない)が求められる。日産が望む人を纏めると、
①スペシャリティの重視:学生の頃から仕事に具体的なイメージを持っている人(この点では私が今日産を受けたら落ちるだろう)
②基礎的な学問・教養を身につけている人:基礎知識がないと創造性は生まれない
③グローバル・コミュニケーション:阿吽の呼吸ではなく外国人に自分を判らせることができて、彼らの言う内容が分かる。このときに教養が大事になる。モノを言わない実力者は絵を描かない絵描きと同じだ。
 英語の話になると、いまの日産社員のTOEICの平均点は約600点で事務系は約700点だ。
 入社希望者にも同じ基準を求めているが、一切問題は無く、全員ゆうゆうパスしているので驚いている。
 英語は道具だ。我々の時代は読み書きさえ出来ればよく、会話は一部の「英語屋さん」が出来ればよく、軽佻浮薄に英語を喋る人は逆に余り評価されずに、普段は寡黙で、いざと言うときに金言を言う人が珍重された。しかし、いまはそんなことでは生き残れない。
 大学に望むことは、そういった人材を育てて欲しい。とくにお願いしたいことは、企業に入ってからの勉強は企業で受け持つので、大学では企業に入ってからでは絶対にできない基礎的教養を身に付けさせて欲しい。企業に入ると結構忙しい。そういう意味で、企業研究に3年生からの足掛け2年間も費やすのはじつに勿体ないと思う。また、将来の職業を意識した教育や常にグローバルに物事を考える習慣を大学で身につけて欲しい。大学改革で大学の形や教育システムが変わっても、肝心の学生のほうに学ぶ意思がないと、どんな立派な制度を作っても成果が上がらないと思う。その意味で、小中高を含めた職業意識、つまり将来の職業に向けて何をどのように勉強していくのかという意識づけが、全ての時点で大事ではないかと思っている。

 


木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 塙名誉会長有難うございました。続いて、私どもの機構で国立大学教育研究の評価委員として助言を戴いている三越銀座店副店長の鈴木清江さんから、現代の若者気質と大学に期待することをお話しいただく。

 


鈴木清江 三越銀座店副店長、国立大学教育研究評価委員「現代の若者と大学への期待」

 塙会長のお話を隣で伺って、とても私は日産自動車には入れない。30年近く前に入社していてよかったなと改めて実感している(笑)。二十歳過ぎた娘を見ていると、企業が求めている人材と大きなギャップがあると思う。
 今の若い人は、皆さんが全く体験しなかった子供の時代を経験している。本当に物質的に豊かな、潤沢な時代に育っていると痛感する。6つのポケットをもつジュニア・マーケットという言い方をされることがある。6つのポケット(財布)とは、両親プラスそれぞれの親の祖父母を加えた6人の財布のことだ。百貨店業界では、少子化の中でも非常に有望な市場で、高価なブランド子供服でも売れてしまうとされている。
 今の若い人は、ハングリーさとは無縁。食事を取り合うとか友人同士競い合うという体験が無い。私の娘など、少子化で一つしかないクラスで小学校の6年間を過ごし、回りは性格や実力の知れた人ばかりといった所もある。
 われわれの世代は、学校から帰ったらすぐゴムとび・カンけりなど外で遊んだものだが、いまの若い人は子供の時から誰かの家の中でTVゲームだ。ゲームが進化するので、社会人近くになってもゲームに親しんでやっている。塾やおけいこ事で結構忙しいので、小さい時から自分の時間がしっかり管理されていて、自分の時間を自由に組み立てることが無い。ケータイ、メール、パソコンなど家でも友人と繋がっていて、孤独を嫌い、自分と同類の仲間と密接に繋がることを求める。
 日経新聞によると「Y世代」という1975年以降に生まれた世代の定義は、日本で経済成長を経験していない世代である。高度経済成長を知らず、物心ついた時にはすでにバブルが崩壊していて、政治家や大企業や高級官僚が批判の渦にさらされており、尊敬の対象とならないという、かなりわれわれの子ども時代とは異なる時代を育ってきた世代でもあることを根底におく必要がある。
 今の若者の実態はどうかというと、先ほどの日産自動車の正社員のようになれる若者はホンの一握りだ。新聞等の伝えるところでは、大卒者の就職率が55%で3年以内に3割が退社し新天地を求める。石の上にも3年は死語だ。いまが幸せ、手の届くところで無理をしないマインドがフリーターの増大に繋がる。彼ら/彼女らは仕事よりも私生活を重視する、趣味や友達づきあいを大切にする。自分に素直な生き方を求め、等身大の自分をもとめ、新しい社会との係わり合いには消極的である面も伝えられている。ただ、一方でNPO活動、ボランティアや新しい社会参加の芽も生じている。
 先ほどのお話によると自動車業界は国際的な競争のなかで大きな変化をとげた。一方、日本におけるわれわれの顧客である消費者も非常に変化しており、百貨店も今までのやり方では駄目だと言われる。
 「百貨」が物凄く増えたので百貨店の業態も変化してきている。その中でわれわれが必要としているのは、「答えの無い所でも答えを見つけて道をつけていく人」だ。
 私は若い人に話をするときに、よく「仕事とはあるべき姿に向けて実体を近づけること」だと言う。しかし、現実にはそれが現実となっている多くの理由がある。たとえばいろんな社会的背景やしがらみである。すると、あるべき姿に向け現実を動かすのは、かなりの力仕事になってくる。いまの若手社員を見て感じるのは、PCでの資料作りやデータ分析の作業はたいへん得意だが、実際にある目的に向けて人を動かし組織を動かすことが苦手な人が多い。対人的な影響力をいかに発揮できるかの力が、実はこれからの企業で仕事をする人材に問われていると思う。
 もう一つ、ビジョンを描く力(構想力)がなによりも大切だ。さまざまな事柄を箇条書き的におさえるだけでなく、他の事項との連関を考えて絵にしていくことが重要である。
 また、判断力・決断力も重要だ。現実の社会でなすべき案を考える時に、○×で判断できる単純なケースは皆無だ。どんな選択肢にもそれぞれのメリット・デメリットが複雑に絡み合っている。△の入ったケースで判断できる力が重要だ。いまの若い人には、そうしたケースに対し、情報を収集し、判断しそれを説明できるような力を養って欲しい。自分の思い・自分のビジョンを相手に伝える説明能力も企業で求める人材には欠かせない。
 以上のようにいまの若者たちの現実と、今話した企業が求める人材との間にはかなりのギャップが生じている。このギャップを感じないまま育っておられるお子さんもおありとは思うが、結構このギャップに苦しんでいる若者も多いのではなかろうか。
 大学に求めることとして、このギャップを今の大学が全て埋めることは出来ないとは思うが、やはり大学側でも教育や制度の上でこうしたギャップを埋めていく努力が必要ではないかと思う。
 知識や基礎教育は大切だ。また提言にあるように使命感をもった人材を育てて欲しい。豊かでない時代は負の部分が使命感を支えた。昔なら親が貧しかったり病気で苦しんでいたりすると、それを陰で支える母が居て「その母に何とか良い思いをさせたいのでボクは頑張るんだ」ということがあった。
 では現在の豊かな社会における使命感とは何か。国や社会に対する使命感はどういう中から生まれてくるのか。豊かな社会における倫理とは何か。こういうことを今考えるべきではないか。われわれは貧しい時代の倫理や道徳は得意だが、果たして豊かな時代でも同じような言葉で捉えてよいのだろうか。
 われわれは豊かな時代の倫理を考えなければならないと思う。それは、もしかしたら、「人に迷惑をかけない」ではなく「自分は人に何が出来るか」というもう少し前向きの倫理観であるかもしれない。マズローの欲求段階説でも自己実現の欲求が言われているが、今の子ども達には「自己実現で自分らしくありたい」は往々にして「無理せず、頑張らず」に繋がってしまうことが多々ある。社会とのかかわり、仕事とのかかわりの中での自己実現のあり方についても、大学の中での教養という位置づけになるのかどうかは判らないが、テーマとして捉え、考えて行って欲しいと思う。
 それと、先ほどの、構想力をどうつけるか、対人能力をどうつけるかだ。いまの若い人は人間的な葛藤を嫌うが、葛藤を避けてばかりいると本当の仕事は出来ない。人間的な葛藤に耐える人間力を身につける方法論も教育の中で研究していただきたい。私も教育学部に居たが、今一度いまの子ども達のありようや、ライブドアの社長のような若くしてバイタリティーのある人物になった方が何をバックボーンとしてそういう道を歩めるのかなどを研究しながら、われわれが経験しない生活実態のなかで生きた子供達が、企業の求める答えの無いところに道をつけていくような力を身につけるために必要な教育の方法論・システムをこれから考えて行くことが非常に重要である。
 ひとつは、座学にとどまらず行動を通じた学習、チームでの研究、現場に出て学ぶ、単なる知識ではない智慧を生み出すことがどういうことか、どうやったら知識でなく力がつくかといったことを考える必要があると思う。また、経営の中でもdiversity経営と言われるように多様な価値観から新たな知を生み出すことが求められている。大学も同様に、多様な学生・多様な先生の中で新しい知的な活動が行われていくのではないかと思う。長田総長から、多様な人々が集まっても、教育システムとして組み立てていかないと知の創造には至らないというお話があった。私も同感である。ではそういう教育システムとはいかなるシステムかというような部分を、もっともっと大学のあり方の中で検討していただきたいと思う。

 

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 鈴木副店長どうも有難うございました。次に、大学に人材を送り込む立場から、宮崎県の山の中にある日本初の全寮制の公立中高一貫校の五ヶ瀬中等教育学校の事例を紹介いただく。私も一度訪問したが、実に素晴らしい教育が行われていると感じた。では、土持校長先生お願いします。

 


土持昭達 宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校長「全国初全寮制公立中高一貫教育『学びの森』」

 宮崎から飛行機で参ったが、東京はほんとうに人が多いと感じた。
 五ヶ瀬中等教育学校は、宮崎県の北東部で九州のほぼ真ん中に位置する。過疎の町にある森の中の学校だ。
 五ヶ瀬町は人口5千人の町である。宮崎県のフォレストピア構想が発表され、平成6年に全国で初めて県立の全寮制中高一貫校が誕生して10年が過ぎた。
 地域の自然や文化の特性を活かし、「体験学習を重視した心の教育」をモットーに、人間性豊かな心の教育、感動と感性の教育を目指し、国際社会に活躍できる人材の育成が建学の理念になっている。
 1学年40名という非常に少ない生徒数だが、小学校でたての子供から、大学に進もうという高校3年生までの非常に幅広い集団だ。開校当初は年間2千人ほどの学校訪問があったが、今は年間500人ほどだ。本校の特長の一つは、フォレストピア学習という体験学習だ。地域の方々を講師として、第1・3・5週の木曜日午後を全て使い、総合的学習の時間の中で実施している。これは、さまざまな体験を通じて子供達が不思議だなと感じたことをテーマに取り上げて、さまざまな角度から調査研究・発表するものだ。1年に1回発表があるので、6年生が卒業するまでに6回発表することになる。その他、中学3年生では、一人10頁の論文を書いてまとめているし、6年生でも最後の集大成ということで、論文集を作成している。昨年、スペースシャトルの中で高校生が科学実験を行うという計画があったが、事故で実現しなかった。この全国の高校6校の中に本校が選ばれている。
 寮生活だが、先ほど木村先生からの報告書の紹介に、行き過ぎた自由と行き過ぎた平等があったが、本校の場合は、まさに「不便」で「不自由」な生活をしている。先ほどの鈴木副店長のお話とは逆にまず携帯電話が禁止、ゲーム機器類の持込が禁止。テレビもせいぜい夕食時か土日の午後に見る程度だ。ただ、新聞、読書やインターネットは十分活用する能力がある。とくに情報入手源としての読書活動については、子ども達は非常に旺盛な読書欲を持っている。また、最先端の大学の状況については、大学の先生に出前講座をしてもらっており、中学生の時から大学に親しんでいる。
 この生活で子どもは何が楽しみなのかと疑問をもたれる向きもあろうが、本校では、汗を流すことが最も大事だと教えている。ストレスを発散させるために、子ども達に色々な活動の場を与えている。
 たった1件のコンビニに行ってアイスクリームやジュースを買うことも楽しみの一つだが、他にどこにも行くところが無いので、買い物に行っても直ぐ寮に戻ってくる。土曜日曜はほとんど部活中心で頑張っている。
 本校は、来月創立10年の記念式典を迎えるが、卒業生はまだそれほど多くない。その意味では、社会への貢献はそれほど無いが、どのような子どもが6年間で育っているのかを紹介する。
 先ほどのお話でも、いまコミュニケーション能力が問われている。本校は一学年40人という少ない人数の中だが、かなりコミュニケーション能力育成を進めている。子ども達同士で悩みを抱えながら一年一年成長する。やはり裸の付き合いに勝るものはない。中学1年から高校3年までが同じ釜の飯を食う本校では、卒業時にはわれわれが想像も出来ないような、兄弟以上の強い絆が生まれる。
 小学校を出たばかりから親元を離れての生活で子どもたちの自主性も養われる。親は子離れできなくても子はしっかり親離れして自立する。洗濯・清掃・アイロンかけなどを自分でやっているうちに、自然と親への感謝の気持が強く育つ。世間では同じ家に住んでいても親子の会話が少ない。停電になった時にやっと親子の会話が出来るという話も聞くが、本校の保護者の方からは、普段地理的に離れているがゆえに、送り迎えの車の中で本当の親子の会話が出来るという声も聞く。
 テレビも無いにひとしい不自由な生活だが、フォレストピア教育や読書を通じて考える力や表現力がつき、弁論大会や科学論文コンテストに優秀者が出ている。先輩を敬う気持ち、後輩をいたわる気持ち、リーダーシップが6年間で培われているような気がする。これらが、大学での教養教育でも求められているところではないかと思う。
 本校の卒業生はまだ3百人。大学院や海外留学等で実社会に出ている者はまだ少ないが、宮崎県庁や銀行などでそれぞれ頑張っている。
 本校ではキャリア教育もやっている。さまざまな体験を通じた上で先輩の話を聞き個人のキャリアデザインを描き、コーチし、発掘する。
 1学年40人だが、半数は国公立の大学に進学、残りの半数は有名私立大学に進学する。ジャンルはさまざまで、畜産では帯広畜産大、海洋科学では琉球大、世界に出たい人は推薦を戴いて立命館のAPU、東大を目指す人は東大と幅広い。一方で自分のキャリアを見すえた上での専門学校への進学者が2~3名居る。国際的な美容の勉強をしたいと専門学校に学んだ卒業生もいる。
 高等教育では高度専門職やリーダーの育成を目指しているが、中等教育ではそのための基礎や基本をしっかりと身につけさせることが重要であると思っている。

 


木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 土持校長先生どうもありがとうございました。最後に、東芝の研究者として日本語ワープロを初めて実用化し、子会社の社長も務められた東京理科大の森健一教授に、技術と経営にとり大切な事をお話いただく。

 


森 健一 東京理科大学教授(MOT担当)「技術と経営がわかる企業トップの育成」

 技術者にとって、そして恐らくは事務系にも不可欠な創造性の話をする。
 日本が世界史の中で「模倣から創造の時代」に突入していることを理解すべきだ。転換点を示すのは技術貿易収支である。日本は1993年に技術輸出が輸入を上回った。アメリカは1930年に転換した。従って、創造力をいかに養うかはアメリカの今ではなくて1930年代に学ぶほうが賢明である。
 国が出している研究開発費は、日本が20%で30年代のアメリカも20%である。当時のアイビー・リーグの有名大学では教育が主で研究はむしろ従であった。アメリカの有力大学が研究に注力し始めたのは1930年以降である。ちなみに基礎研究分野で「日本ただ乗り論」がアメリカを中心とする外国からいまだに言われるが、実は1920年代には、アメリカもドイツから技術ただ乗りだと非難されている。その結果、1920年代に大もうけをしたロックフェラー、カーネギー、メロン、スタンフォード、ハーバンク(プリンストン)などの財閥企業が寄付をすることによって、カーネギー・メロン大学、スタンフォード大学やプリンストン高等研究所といった研究を主とする大学院大学の隆盛に繋がり、国も大学研究費の20%拠出を目指した。
 日本は、1995年に科学技術基本法を制定し、また国立大学の独立法人化を進めている。では、日本の民間企業は創造力を鍛えることをやってきたか? 確かに、改善運動には熱心であるが創造力向上運動には熱心だったとはいえない。会社の新入社員を集めて質問すると、「創造力に自信がある」と答えた人は「ゼロ」で、「体力に自信があるか?」と聞くと体育会系の2~3人が手を挙げただけだった。
 私に言わせると、「創造力は誰でも持っているが、自覚できていない」だけである。多くの解を考え出して現状にどれが最適かを判断して選ぶ能力こそが「創造力」である。そこで、3つの創造力の体験、自覚、発揮の研修プログラムを作った。
 創造力開発訓練では、新人7人1組のメンバーに3ヶ月の期間を指定して、解が何十通りもあるモノづくりの課題を与える。装置の性能・原理・説明の巧拙等多くの項目からお互いに評価する。メンバーに日誌を書かせることがポイントで、はじめの2ヶ月はなるべく違う専攻で選ばれたお互いの批判や愚痴ばかりだが、2ヶ月目の中間報告が終わった頃から、日誌のトーンが変わる。そして見事課題のモノづくりを達成すると「この7人の侍が力を合わせると、創造力を発揮して会社の現実の問題でも絶対解決できる」と自信に繋がる。
 また、入社4~5年に先輩に仕事を通じた体験談を語ってもらい、自分を見つめ直して自分が今何をなすべきかの決意表明のレポートを書いてもらう。そして上司からさらにその上司とカンパニー社長までコメント・激励を附けて本人に返却すると言うプロセスを採っている。大成した先輩に共通するのは、「急激に伸びた時期があった。それは入社4~5年の時期だ」ということ。それには、①小さい成功体験を積み重ね自信を蓄積する ②仕事の不平不満も蓄積されるがこれがバネとなる ③自分の将来についてじっくり考える の3つの要素が必要である。これら(とくに③)を会社が提供しようと言うものだ。受講者からは自分の道が見えてきたと非常に好評だった。
 新しい製品のコンセプトを生み出す教育もやっている。自分は、日本語ワープロの開発や郵便番号自動読取装置の開発という、当時全く無かった新製品の開発に携わった。そこで最も大切なことは、未来の市場に求められるコンセプトである。まったく影も形も無い新製品の素晴らしさを明確に短い言葉で表現して上司を説得しなければならない。議論だけでコンセプトを生み出せるのは人間だけである。ここで、実社会で培われた問題意識、説得力、協調性そういったものが問われてくる。東芝のDVDはこのコンセプトが先にあった好例である。
 東京理科大MOTの大学院では技術の分かる経営者を育てている、学生には10年以上の実務経験を持つ社会人が多く平均年齢は36歳で最年長は57歳である。自分の課題を持っているので非常に真剣である。彼らがリーダーとして持つ、知性、説得力、自制力、持続力を持って帰れば、日本の企業もV字回復ならぬJ字回復も可能になると信じている。

 


木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 森教授どうも有難うございました。本来ならここでパネラー同士のディスカッションなのだが、冒頭申したように、各界から素晴らしい皆様にお集まりいただいているので、時間の関係もあり、直接フロアからのご意見ご質問を承りたい。

 


<質義応答>


風間重雄 中央大学理工学部長

 土持校長をはじめとするパネラーの話を聞くと、今の大学教育・初等中等教育が抱える諸問題を解決するには、子供たちを貧しい環境に置けば企業の求める人材が得られるということになると仰っているような気がする。これは勿論皮肉だが、現代の進歩した文明社会でわれわれはどう考えるべきだろうか。
 私自身物理学の実験屋だ。指導している学生はパソコンの前にはよく座るが、現場の実験室で装置を作ると言うことはなかなかやらない。何かというとパソコンだ。どうすればよいのだろう。物理専攻の学生でもハンダづけが出来ないので「先生、やってください」ということになる。昔は、不具合があると回路を解析し抵抗1個が悪いと分かれば秋葉原に買いに行き、自分たちで取り付けて修理して実験を継続したものだ。ところが今は、抵抗1個が悪くても、メーカーに頼んでパネルごと交換となって何万円、何十万円という請求書が来る。
 日本国の将来を考えた場合、理工系の人材を得るにはもっと貧しくならないといけないのだと考えてしまう。質問と言うより現場での実感を伝えさせていただいた。

 

鈴木清江 三越銀座店副店長

 私が尋ねてみたいと思うのは、そういう状態に置かれている理工系の学生が、「それで良し」と思っているのか、それとも「何か違う」と思っているのかだ。学生に問題提起をして考えさせるのが早道ではないか。

 

風間重雄 中央大学理工学部長

 こういう答え方が、理工系の大学生・大学院生の状況を最も正確にお伝えできると思う。かつては実験着というか作業着を着て仕事をしたいと思っている学生が多かった。ところが最近はスーツを着てネクタイを締めて仕事をしたいと思う理科系の学生が増えてきた。そういえばお判りいただけると思う。

 

駒村正治 東京農業大学地域環境科学部学部長

 塙名誉会長にお伺いしたい。
 会社に入ってからするようなことは大学で勉強しなくてよい。会社で出来ない勉強を大学でやって欲しいとのお話だった。ただ、最近インターンシップが重要視されていて、学生の学ぶ意欲・モチベーションを高める意味でもインターンシップが重要とされている。そのあたりの感覚のズレについて教えていただきたい。

 

塙 義一 日産自動車名誉会長

 私も明快な解を持ち合わせているわけではないが、二つ言えると思う。一つはインターンシップで何を学生に与えようとしているのか。企業とはこんな所だと学生に知らしめることが一応の目的だろうが、それはいったい何のためか? 企業へ行けばいずれ知らなければならないことを前もって勉強しておこうと言うことは、余り必要ないのではないかと私は思う。4年間の一部をそれに使うのは余りにも勿体無い。そうではなくて、自分が卒業後どちらを向こうかと迷っている時に、企業を覗くことによって、ああこういう仕事もあるのか、とか、自分の望む職はこういうイメージだなと具体的なイメージを把握することにインターンシップを利用されるのは非常に意味がある。大学で勉強するのも、本人が意欲を持って将来そっちに進むという方向付けをするためにインターンシップを利用するのは大変意味がある。
 実は、私も入社前に半年ほどインターンシップをやったのだが、先輩からは「塙にインターンシップをやらせたのは失敗だった」と言われた。フレッシュさが無くなるわけだ。学生が半年会社を見たぐらいで、本当のことは何も分かりはしない。でも学生にすれば分かった気になる。すると、入社した時に、「これも知っている、アレも分かっている」という態度を取ったらしくて、それで「失敗だ」と言われたようだ。私も悪いが、ハッキリした目的意識を持たず、何となく会社を眺めようかという気持ちで行った所に問題があったのだ。インターンシップは目的がハッキリしていないと意味が無いと思う。

 

足立 寛 進研アド「Between」編集長 (第2回諸井委員会講師)

 学生たちをどう変えるか・どう変わってもらうかという発想はもちろん大事だが、逆に今の大学の先生方が教え方においてどう変わるかということも必要ではないかと思う。今FD(ファカルティ・ディベロップメント)として教授法改善に先生方が取り組み出したことは事実だ。しかし、大学のFD研修会に呼ばれてあちこちの大学を訪問してわかったのは、こういう研修会に出てこられる先生方は意識が高くて良いのだが、多くの先生方は出席せず、関心も示さないということだ。
 森先生が実践されているような、学生の自主性を引き出すような取り組みをどうすればFDとして大学の先生方の間で共有化し、全国的に広める事ができるか。その方策を考えていかないと、いつまでたっても根本的な改善に向かわない。そのあたりは大学の先生から見てどう思われるのか。

 

森 建一 東京理科大学教授

 先生のほうにも大きな問題があるという指摘はその通りだ。そのときに木村先生にお願いしなければならないのだが、大学の評価が今非常に大きな話題になっている。そもそも、大学院大学の先生は、研究者として立派でないと学生が先生の後姿を見て学ぶという所まで行かない。他の学者の学説を紹介しているだけなら尊敬に値する先生ではないというわけだ。当の先生の研究が世界をリードしているようでないと、尊敬には値しない。逆に学生のほうも、先生に尊敬の念を持っている学生は本当に勉強する。
 ある意味では大学の評価をするときに、自ら学ぶ意識の無い学生や、自らあるレベル以上の研究をする意欲や能力の無い大学院の教官は、大学や社会にとってはある種の「不良資産」だ。評価をするときは、銀行だけではなくて大学もそういった「不良資産率」がどれぐらいあるかと言うことを評価することが必要だ。これを改善するために各大学がどういう教育をし、どういう先生を選ぶのか。先生も淘汰されなければならない。
 企業では個人や組織を「評価」するのは当たり前のことだが、大学と言う組織では今まで必ずしも外部評価がきちんとなされてこなかった。この評価の際に「学力」や「論文数」など数値化できるものだけで評価すると、いびつになるので留意しなければならない。

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 日本の大学の一番大きな問題は「モビリティ(流動性)」の不足だと思う。ことにブランド大学になればなるほど、ほとんどの先生方が、学生、大学院生、助手、助教授、教授とそれこそ何十年ずっと同じ所にいる。
 この構図を変えない限り、いま森教授が言われたことは絶対に実現しない。私は英国にしばらくいたが、スタッフにはケンブリッジ卒は多いが、そればかりではなくさまざまな大学の出身者がいる。また、企業の経験が豊富な方も沢山おられる。私が2年を過ごしたケンブリッジ大学の工学部の例で言うと、日本の大学のシステムと一番違うのは学部を卒業して直ぐに大学院に来た人が「ゼロ」である点だ。一番短い人でも3年の企業経験、長い人では7~8年の企業経験がある。そういう人々がまた大学院に戻ってきて研究者になってゆく。従って、世の中を非常に良くご存知の方ばかりで、社会のニーズに敏感に反応している。これは工学部の場合で、理学部にとってそういう状況が良いかどうかは分からないが、私は、「モビリティ」を増さない限り日本の大学は変わらないと思っている。

 

堀 一郎 東京私学教育研究所長 (本シンポジウム協力団体)

 大変興味深い報告や議論を伺え感謝している。先生方は受入れる立場の方が多いが、私ども(都内の私学中高一貫校の団体)のように大学に送り込む立場からすると、今の大学はまるで駄目だ。
 ハードな受験勉強に疲れて、1年目は休んで遊ぶ。2年目は一寸中だるみで遊ぶ。3年目になるともう就職活動をしなければならない。でも、採用する企業の方々は「4年間の大学時代の生活で採用する」といわれるが、4年間じつは誰も勉強していない事情が今の大学生にある。われわれ送り出す側としては、そういう大学の現状を非常に情けなく思っている。その辺に対する提言も、われわれだけでなく企業の側からも是非お願いしたい。

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 先ほどは時間の関係で仔細に述べられなかったが、実はその辺も報告書にきちんと書かれてある。
 きちんと勉強させろ、企業も勉強してきた学生をちゃんと評価せよと、堀所長のご指摘と同じことが書いてあるのでご安心ください。われわれも問題意識として十分把握している。(報告書p2、12、38参照)

 

瀬戸雄三 アサヒビール相談役

 本日はじつに多くのキーワードを頂戴した。大学は人材養成機関であり「新しいエリート人材」を育成しなければならない。創造性をはぐくむ教育をし、多様な多彩な教育をしなければいけない。
 創造性は多様性からしか生まれない。そのためには古典との出会いも大切だ。実績主義は実力主義ではないとの話もあった。スペシャリティの重視・基礎的教養の大切さ、グローバルにコミュニケートできる人材養成など色々なことを伺った。また、豊かな時代の中での使命感や倫理観はいかにあるべきかとの話もあった。
 行動を通じて学ぶ、知識から智慧へといったありがたい提言もあった。土持先生の中高一貫教育のお話の中で、親から離れているがゆえに親への感謝の気持ちが湧くということが大変刺激的だった。どんな大学を目指していくかということで、中高生活を通じ自分で自分の進路を判断できるような生徒を育てるというのは非常にユニークなご意見だ。
 また、創造力は誰でも持っている。創造力を阻害しているのは唯一同じ回答を求める教科書教育の弊害ではないかとの話も参考になった。企業に入ってから自分を見つめ直す機会を与えるのも大変意味あることだと思う。
 私は、昨年長田先生の設立された立命館のAPU(アジア・パシフィック大学)に1日滞在し、勉強もさせていただき、後に当社に入社したタイ人の女性とも話をさせていただいた。彼女は今大変元気に頑張っている。APUや土持先生の中高一貫教育を拝見していると、学校教育は個性化を図っていかねばならないと思う。個性的な教育の中に競争が起こり学校の優劣が起るこういった循環が重要だ。個性的な教育の中で最も重要なことは、魅力のある学校をどうして作るかである。私はそのためには学生が気持ちよく学べ、抵抗無く学校に行けるという環境が必要だという意見を持っている。

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 本来私がやるべき纏めを、代わりにアサヒビールの瀬戸相談役が非常に上手くやってくださり感謝している。気が楽になった。

 

早稲田大学イギリス研究所 額田氏(*所属・氏名 確認不能)

 生涯教育の中でのキャリアデザインの位置づけが重要視されている。昨日も「キャリアデザイン学会」が設立された。その中で企業も含めてキャリア教育についての見識を伺いたい。

 

鈴木清江 三越銀座店副店長

 企業の中で人をどう育てていくかは非常に重要な問題だ。「次世代育成プログラム」という形で入社3年目ぐらいの間に一人前の社員にして行こうとか、自分で毎年の自己申告のなかでキャリア申告をさせるとか、あるいは人事評価の中で上司との面談を通じてその中で自己のキャリアについて話し合うといったことがなされている。日産自動車では、どの部門で働きたいかという採用をされているようだが、企業の中に入ってある一定の期間を経て、マネージメントの方向で仕事をするのかあるいはそれぞれの職種のプロとしてやっていくのかを、人事評価・上司との面談を通じて毎年行われている。このように自己のキャリアについて毎年上司と話し合いを持つ仕組みが出来ている。

 

塙 義一 日産自動車名誉会長

 日産では、キャリアデザインというトレーニングコースを最近社内教育に取り入れた。講師は外部の専門家にお願いしている。本人のキャリアをどう自分で考えて作るかをトレーニングするわけだ。また、キャリアコーチを数名社長直轄で設けている。そのコーチたちがキャリアデザインのヘルプもするし、埋もれた人材を発掘するとか、その発掘した人材をどうキャリアに乗せるとかを行う。このようにキャリアについて全社的見地から色んなことを常に考えている人間が数名居ることもプラスであると思う。

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 今エンジニアリングの分野では、CPD(コンテニュイング・プロフェッショナル・ディベロップメント)というプログラムが非常に大きな形で展開されている。電機学会・電気通信学会・機械学会・土木学会・地盤工学会など主な学会では全部やっている。これは企業から直接要請があったわけではなく、日進月歩の技術に対してエンジニアが遅れないように、学会が率先して教育していこうというプログラムで、これを展開している所である。

 

風間重雄 中央大学理工学部長

 教養教育に関する提言を読むと、従来からのリベラル・アーツ的な教養に「加えて」と書いてあるが、私はむしろ、日本に本来の意味でのリベラル・アーツが根付かなかったことが問題であると思う。先ほど言われた具体的な問題を学際的な観点から考察するというのが、本来の意味でのリベラル・アーツであったのではないか。日本の教養教育が失敗したのは、本来のリベラル・アーツが持つ意味を十分に理解しなかった所にあることを、私自身の経験から申し上げておきたい。

 

木村 孟 大学評価・学位授与機構長

 その辺はわれわれの議論でも出ている。日本ではリベラル・アーツが本来の姿と別のものになってしまったという認識から、敢えて別の表現を採らせていただいた。ご理解いただきたい。
 最初の風間先生の「貧しくなくてはならないのか」というご質問に関してコメントする。
 現実には後戻りが出来ないので、鈴木さんが提言されたように「豊かな社会でわれわれはどうしていかねばならないか」を考えるべきだ。その点で、英国に限らず欧米先進国ではシステムがかなり上手く出来ている。つまり、英国の場合であると、高等学校を出たらもう親は面倒を見ない。高校を出て、自分の家から大学に通っているような英国人の大学生がいれば、皆に馬鹿にされる。自立を半ば強制的にうながす仕組みが社会的に出来あがっている。さすがに、近年は経済的理由から大学も授業料を取るようになったが、学生の自立を促すためにも伝統的に英国の大学は授業料を取って来なかった。子ども達の自立について言うと、1万をはるかに超えるNPO・NGOがあって、夏休みに子供たちを親から離して泊りがけで面倒を見る仕組みが出来ている。本来そういうことを日本でもやるべきだったのにやりそこなったから、日本がおかしくなったのではないかと思っている。日本でも、国としてそういうことを今後考える必要があると思う。(*)
 *注:諸井委員会では、初等・中等教育問題を検討した際に、参考事例としてリコーの全面的なバックアップのもとに「生きる力を大地から学ぶ」を基本理念として農作業を中心とした自然体験活動・共同生活を通じ子どもたちの健全な成長を支援するNPO法人「市村自然塾」の活動、日本IBMや富士ゼロックス等の支援を受けて、子どもたちに社会や経済の仕組みを理解させて意思決定力を育ませる「ジュニア・アチーブメント」運動、リクルートフェロー(当時)の藤原和博氏と足立区第十一中学校社会科教諭による中学三年生に生きた社会の仕組みを教える「『よのなか』科 の授業」の取り組みを紹介している。[2002/12発行の調査報告『21世紀の教育を考えるー社会全体の教育力の向上に向けてー』p24参照]

 

四方 義啓 名城大学総合数理教育センター長 (諸井委員会委員)

 教育は豊かさの中に貧しさを見つけることだと思う。森先生の話の中にもあったが、不満を保存することは教育において非常に大事なことだ。不満があるからこと人間に未来が生まれる。抵抗があって初めて実在感が出る。今の日本の社会に「危うさ」を感じるのは、あまりにも抵抗をなくして、あまりにも居心地を良くしようとしすぎている。たとえばいまの紙オムツは非常に進歩した。あまりにも居心地が良いものだから、いつまでもオムツ離れしない。そのような危険な状態にきていると思う。豊かさの中に貧しさを見つける、あるいはその方向を強制的に取り入れなければならない時代に来ていると思う。
 しかし、もう一方で、私どもの社会は実はものすごく貧しいのではないかと思う。長々と云うと話が複雑になるが、色々な面でゆとりや潤いのある生活を楽しむという実感ではわれわれは欧米に比べて明らかに貧しいと思う。この点をはっきりと認識させるのも、一つの教養であって、リベラル・アーツの非常に重要な点であると思う。
 私どもがリベラル・アーツに関して一つ利点を持っているのは、1930年代のアメリカのようなプロジェクトを組むとアメリカに勝てるのではないかと思う点だ。実は大学で何を教えるべきか、学問とは何であるかということは、世界的に見ても本当は分かっていない。もし、これをわれわれが先に見つけて、30年代のアメリカと同じようなプロジェクトを組めば、恐らく次の世代には日本は勝てると思う。その意味で、本日のシンポジウムおよび私も委員として随分お世話になった日経調の諸井委員会は共に非常に大事な会議であった。
 私は名城大で「飛び入学」という制度を作って色々やっているが、できれば別学を作り諸先生方の力をお借りして1930年代のアメリカをここに持って来たいという挑戦的な意欲を持っている。その意味で本日の「これからの大学を考える」このシンポジウムは非常に意味があったと思う。

 


諸井委員長(閉会の辞)

 今日は私どものレポートをご理解いただこうとシンポジウムを開いた。これだけの多彩な方面の先生方にお集まりいただければ、これからの大学はどうあるべきかの回答が出てくるのではないかと思った。
 しかし、それはずうずうしい考えであった。お話を伺うにつれて、新しい問題が次々に生まれてきてなかなか纏まってこない気がした。やはり、これからの大学を作り直すことは、本当に大変な仕事だなと感じた。
 しかし、18歳人口が減り大学全入時代になる日が目の前に来ている。大学としては、必死になって競争して、入学したいという面や、卒業生を欲しいという面で世の中から求められるような大学になっていかないと生き残れない。やはり、それぞれの大学が自らのビジネスモデルをきちんと作って、本当にウンウン言いながら苦しんでいくしかないのかなと思う。
 本日集まっていただいたパネラーの皆さんには、本当にそれぞれ忙しい中長時間を割いてお集まりいただき、貴重なご意見を述べてくださり感謝にたえない。また、報告書をまとめていただいた主査の木村孟先生ならびに委員代表の山本眞一先生(筑波大学教授・大学研究センター長)に改めて御礼を申しあげたい。
 実は、これだけの聴衆にお集まりいただけるとは、私も予想していなかった。聴衆のみなさんが長時間熱心にお聞きくださり、さらにご質問やご意見を戴き熱心に参加していただけて本当に有難うございました。本日はこれで終わらせていただく。(拍手)

司会者:本日はご参加有難うございました。傘などお忘れ物なきよう、お気をつけてお帰り下さい。

 以 上

 

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